中の御庭

明暦3年(1657)2月1日保科正之公の嗣子正頼公が18才で歿し、墓所を院内山西の御庭に定め「従四位侍従源正頼」の墓を建てました。これより先正保四年(1647)12月4日に歿した、達性院(正之三女菊3才)と慶安4年(1651)6月27日に歿した徳性院(正之侍妾お塩29才)の墓二基を浄光寺から移し、寛文5年(1665)10月5日に中の御庭に改葬しました。
寛文11年(1671)7月20日正純公(正之四男20才)が歿し「源五位下正純墓」として中の御庭に埋葬し、これに続いて延宝元年(1673)4月、詮量院(正経長女諏方2才)を埋葬しました。
寛文12年(1672)正之は猪苗代の見祢〈みね〉山に自ら寿蔵(墓所)を選定しましたが、この年院内竹林滝原に新田二町二反余の新墓田が開かれました。
延保7年(1679)10月3日、二代正経公を鳳翔院殿として佛式により院内山に埋葬しました。以後藩主の埋葬地として定着するようになったのです。
中の御庭にはその後、玄光院(三代正容二男春之助2才)光明院(正容五男万吉5才)栄寿院(正之侍妾布貴・正容の生母76才)香厳院(正容七男政五郎3才)が順々に埋葬されました。


西の御庭

享保12年(1727)1月17日に歿した玉麟院(正容〈まさかた〉四男正房17才)を埋葬し、以後藩主の侍妾・子女の墓所となり計13の墓石があります。
宝暦元年(1751)8月4日蘂光院(四代容貞〈かたさだ〉二女喜知5才)が西の御庭に埋葬されましたが、以後天保三年までの80年余にわたりこの墓所の埋葬者はありませんでした。
天保四年(1833)2月17日真浄院(八代容敬〈かたたか〉二女美世3才)の埋葬以後、早世した容敬公の7人の子女が次々と埋葬されましたが、嘉永6年(1853)2月5日歿した戒心院(六代容住〈かたおき〉侍妾美恵・七代容衆〈かたひろ〉の生母71才)の埋葬が最後となっています。


亀石

亀石
碑石を支える巨大な台石で亀趺〈きふ〉または亀趺坐〈きふぎ〉といい、一般的には亀石などと呼ばれています。この大きな亀は竜の子で、死者の霊をお護りする創造の動物と云います。古代中国の故事から引用され、この形に彫られているそうです。どの亀も頭は北を向いています。


碑石(ひせき・いしぶみいし)

碑石
墓誌石ともいわれ、故人の姓名・生立ち・人柄・終生の経歴・業績など、功徳をたたえる文が詳細に刻まれています。選文は、国子祭酒朝散大夫や大学頭〈だいがくのかみ〉といわれる当代随一の国学者がこれにあたりました。
註・国子は国学・祭酒は校長・朝散大夫とは文武の徳望にあるものの尊称です。



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